No.11 中国勤務時代のエピソード②

No.11
中国勤務時代のエピソード②
 (前号からの続き)
 私が中国(北京)に赴任したのは、VISA取得手続きや赴任者研修受講などのため正式には1998年7月になりましたが、その前の4月に一度現地の状況視察のために出張に行きました。
 そしてわかったのですが、当時の北京の現地法人は日本人の常駐者が不在で、中国人もしくは台湾人のマネージャーによる経営で、まだ基本的な会社としての体裁ができていませんでした。例えば、日本の親会社の承諾もなく、親会社ロゴ入りの機器をOEM販売して、売れずに大量の在庫を抱えていたり。また、売上計上基準が入金基準で損益状況が全く把握できない(これは、中国の商慣習上、ある意味普通ではありましたが)など。
 なので私は、当時のその現地法人はできて間もないながら、風前の灯だと感じたのです。これは、自分で手を挙げて赴任したとはいえ、かなりショックでした。一方、現地及び日本の親会社の出向元部門からは矢のような催促で、7月にとりあえず単身で赴任し、家族は後から来てもらうことにしました。しかし、もしかしたら赴任早々この会社はなくなるかもしれないなどと家族にはとても言えませんでした。
 妻と幼い子供二人は、私の赴任から1か月後に北京に来たのですが、引っ越し等の作業と初めての海外生活にストレスが募り、来た早々風邪をこじらせたのか入院し、点滴を打つような状況に陥り、もう日本に帰りたい、という始末でした。会社の状況が厳しく、家族に負担をかけてしまったという反省もありましたが、この時はさすがにちょっとへこみました。(幸い、家族は半年程度で現地生活にも慣れ、事なきを得ました。)
 更に、現地法人の資金繰りの問題がありました。中国の商慣習では、実質的に売買取引が完了しても、客先が難癖をつけて支払いを保留する、ということがあります。その現地法人も御多分に漏れず未回収の債権を抱え、資金難に陥っていました。また、日本の親会社が大手メーカーといえど、中国の現地法人に対しては銀行もなかなか融資を認めてくれませんでした。
 そうやって暫くは綱渡りの状態が続いたのですが、1年経って自分なりに会社としての色々な制度なりを整備して、ある程度はやっていけるのではないかというところまで落ちついてきていました。そして、2年目に日本の親会社から監査を受けました。監査部門長から「山田君、この会社は大丈夫かね?」と。その時点では、当時の董事長(日本人非常勤)と日本側主管部門との間で事業戦略の不一致があり、私はそれが最大のネックと考えていました。「組織的に事業戦略を一致させ、一枚岩で対応すればこの会社はきっと立派に成長します。」と答えました。
 その甲斐あってか、幸いにも董事長が折れて戦略の一致に至り、日本側からの増資も得ることが出来、3年目からは順調に成長軌道に乗っていきました。(増資の件では、また別のエピソードがあるので、次の機会にお話しします。)