No.28 母の追憶

 母が亡くなってから早くも20数年が経ち、自分も概ねその時の年齢になった。子供の頃は考えもしなかったが、最近になって母は生前は幸せな人生を送ったと思っていたのだろうかと思うことがある。それは、生前母はよく「死にたい、死にたい。」と言っていたことがあるのだ。別に自殺未遂などするわけでもなく、子供の時は冗談としか思っていなかった。
 母は若いときは実際の年齢よりも若く見え、学校の授業参観などで母を見た同級生などから「お前の母さん、若くてきれいだな。」などと言われ、自慢でもあった。しかし、私が中学生くらいの時からだろうか、ほんの数年の間に、姉が精神疾患、父が胃潰瘍、そして母も胆石・子宮筋腫と相次いで大病を患った。それから、母は身体のあちらこちらを悪くして、坂道を転げ落ちるように老け込んでいった。
 私が結婚式を横浜で挙げるといった時、母は50歳を超えたばかりの時だったが、既に容貌は60歳過ぎに見え、足腰を悪くして上京するのもやっとというような状況だった。それから数年後には寝たきり状態になってしまった。当時は病名がわからず、周囲は気持ちの持ちようだ、甘えているのでは、という声が大きかった。絶えず、からだのどこそこが痛い、と言っては薬を処方してもらい、気が付いたら全部で20数種類もの薬を飲んでいた。今思うと、薬の飲みすぎが命を縮めたのではないかという気がする。パーキンソン病の一種だとわかったのは、もう亡くなる直前だった。何度か母の病状が悪くなる度に大分に帰省していたが、その時は嫌な予感がした。
 帰路、博多の兄と合流し、母が入院する大分の病院に直行した。父が母に付き添っていたが、母の意識はもうなかった。実家に1泊し、翌日また病院に向かう。しばらく、父と兄との3人で色々話し合っていた。ところが、障害を負った姉の話になって、父と兄が小さな口論を始めた途端に、母の呼吸が突然荒くなった。そして、身体を反り返らせ、大きく息を吐いたかと思うと、そのまま臨終を迎えた。
 その瞬間、私は母の声が聞こえた気がした。「姉さんのことを頼むよ。」母は障害を持った姉のことが気がかりだったのだ。母が亡くなってから、父と姉が二人で生活することになったが、母の「遺言」をずっと胸に秘め、帰省した時は二人の様子を見ていた。
 その後、20数年が経ち、父が亡くなり、そして姉も4年前に亡くなった。母の「遺言」の事があったので、姉の面倒(と言っても、成年後見人という立場でだが)は私がずっと見ていくつもりであったのだが、その姉も病院内で食事をのどに詰まらせるという事故で無くなった。
 父や母が亡くなったときは、ある意味で諦めもあったが、姉の時はしばらく喪失感が残った。果たして、母の期待に応えられたであろうか?今頃は、あの世で父と母と姉の3人で楽しく過ごしているだろうか?そんなことを考えながら、仏壇に手を合わせる今日この頃である。