No.34 父の追憶

 No.28で「母の追憶」を書いたが、今回は亡父のことを書き留めようと思う。
 父が亡くなって今年で8年目になる。父は6人兄弟の末っ子で、戦前は満州の工業専門学校で学び、太平洋戦争の末期は特攻隊に志願し、出撃直前に終戦を迎え、命拾いをしたらしい。そういう経験をしたせいか、飛行機に乗るのが怖いのか、私の記憶では父は一度も飛行機に乗ったことはない。私が中国・北京に駐在していた期間も、一度も遊びに来たことはなかったし、満州時代の話もあまりしたがらなかった。
 しかし、父は若い頃から負けず嫌いな性格で、仕事でも必死に働いていたようだ。工業専門学校では地学系が得意だったようで、当時石炭産業が盛んだった筑豊の麻生グループ(現麻生副総理の実家が経営)に入社した後は、福岡と熊本の拠点・工場を何度か転勤して回った。熊本では工場長にもなり、一時は社宅が工場敷地内にあったので、私や兄は工場内が遊び場みたいなものであった。(今思うと非常に危険だったが。)
 母からは一度も叱られた記憶がないのだが、父は若い頃は短気で怒りっぽい性格だったので、とても怖い存在だった。熊本でもいくつか社宅が変わり、私が小学校3年の時から高校までは、耕作地付きの農家を借り切って住んでいた。古い農家なので、トイレはいわゆる「ぼっとん便所」だ。耕作地に母が野菜を作っていたので、肥料として撒くのを私も手伝わされたことがある。
 ある日、父が男用のほうで用を足していたら、老朽化していたため、床が崩れて父の足が下の甕の中に突っ込んでしまった。家族みんな大笑いしてしまったのだが、父は真っ赤になって怒った。すぐさま、裏の竹やぶから竹を数本切ってきて、それを半分に割ったものをトイレに敷き詰めて床を作りあげたのだ。しかし、父が落っこちた時のシーンが目に焼き付いていて、私は父が作った竹製の床の上に最初は怖くて乗れなかった。ビビりながら用を足したら、その竹の床に漏らしてしまったのだ。これを見た父は猛然と怒りまくった。私を捕まえると、両足を持って逆さづりにしてトイレに連れて行き、「自分の小便を舐めて掃除しろ!」とやられた。父は自分が必死になって作ったものを汚されたので、頭に来たらしい。母が何とか取り繕って、その場を収めてくれたが、私には恐怖の一瞬であった。
 そんな父も、50歳過ぎで営業担当になって福岡に単身赴任したのだが、慣れない仕事のストレスからか胃潰瘍で倒れた。私は大学2年で大分でアパート生活していたが、伯父から緊急の電話連絡を受け、すぐさま病院に駆け付けた。幸い命に別状はなかったが、胃の3分の2を切除した。ずっと父は強くて怖いイメージしかなかったが、ベッドに横たわる父を見た時は、
何とも小さく感じた。
 母が60過ぎで亡くなってから10数年間、父は姉と二人暮らしだった。高血圧、糖尿病、痛風、など成人病のデパートみたいだったが、食事の節制や身体に良いと言われる卵油などを摂っていたせいか、割と元気であった。しかし、脳梗塞で足が不自由になってからは、認知症も患い、亡くなる前の数年は介護が必要な状態だった。姉も障害があったので、二人共倒れにならないか不安であったが、幸い介護指導員の方からのアドバイスで、父は特養老人ホームに、姉は病院に、同時に入所してもらい、生活面での不安はなくなった。施設に入所してもらうのも、色々悩んだが、父からも姉からも「周りの方たちが親切にしてくれるし良かった。本当に有難う。」と言ってもらえたので、気が楽になった。
 生前、父が山田家の家系図をくれていて、先日年始回りで息子夫婦が来た時に、そのコピーに若干の追記をしたものを渡した。大分の本家が始祖から代々400年間の家系図を残してきたものを、父も書き写していたものだ。こうやって、父から子に、孫に、DNAと一緒に受け継がれていくことは尊いことだと思う。