No.43 リビアのエピソード7

 リビアの駐在期間(1983年11月~1985年2月)を終えて、日本本社の海外経理部門に所属することになったが、6年半くらいの間、主に中近東地域のプロジェクトの後方支援で、現地税務申告などの仕事で出張することが多かった。
 リビアもその後2,3回出張で行った。当時はリビアの犯行とされる国際テロ事件が頻発しており、米国からは「ならず者国家」と呼ばれていた。日本赤軍のメンバーが潜伏していたということもあり、テロ活動の温床となっていたものと思う。そのため、国際社会から経済制裁を受け、輸入物資が非常に入りにくい状況にあった。スーパーなどでは、牛乳などの生鮮食料品も少なく、輸入たばこもなかった。ブラックマーケットでは買えたが、通常価格の数倍の値段がしていた。
 1986年4月には米軍によるリビア爆撃があった。トリポリ市内のカダフィの宿舎を爆撃したのだが、この時はカダフィは間一髪逃げ延びた。娘が爆死したと伝えられる。私の後任者K氏が駐在していたのだが、私が出張時彼から聞いた話では、結構近くで爆撃音が聞こえ、日本大使館の窓ガラスも爆風で割れたらしい。現地から日本に国際電話をかける時はオペレーター経由だったのだが、異常にノイズが入ったりしていたので、盗聴されていたものと思う。出張時に、日本側の上司と電話していて、上司が「山田君、ミサイルは大丈夫だったかね?」と言った瞬間に電話が切れた。日本語のわかる北朝鮮人が盗聴していたのだろう。戦闘機や兵器はソ連製で、リビア空軍には北朝鮮人パイロットが多くいるという噂を聞いていた。さもありなん。
 1988年12月には、ロンドン発米国行きのパンナム機爆破事件があった。米国のリビア爆撃に対する報復テロとされる事件だ。2001年の同時多発テロ以降は、米国の目がイラクに向かう一方で、リビアは米国との協調路線をとり、核査察を受け入れるなどして、一時は経済制裁解除を得た。しかし、長年の経済制裁によって、国のインフラは壊滅状態になっているものと思われる。私が勤務した会社によって、リビア国内に設けられた通信基幹網もほとんど保守ができない状態にまで陥っているようだ。例えば、衛星通信の地上局では、衛星の自動追尾システムが故障し、人間が手動で動かしていたという話など。
 国民生活が窮乏してくると、国家としての求心力はなくなるというのが歴史上の常だ。もともとリビアは、アラブといってもいくつかの民族が過去から対立している国で、首都もトリポリとベンガジが交互になったりしていたぐらいだ。2011年、国内で内戦が勃発し、10月カダフィが殺害されて政権が崩壊した。それ以来、内戦状態が続き、日本からも入国が禁じられている状況(レベル4:退避勧告)だ。求心力を失ったリビア軍の兵器が大量に周辺国に拡散し、テロ活動に供されているという状況もあるようだ。現在、欧米諸国は、シリア・イラクのISの掃討に躍起になっているが、リビア東部にもISの拠点ができつつある。
 アラブ諸国に「あぶら(石油)」が産出されるという歴史上の偶然が、欧米諸国の思惑に翻弄されることになり、イスラム原理主義から過激派テロ思想を生み出すことになっているのは全く皮肉だ。「アラブの春」と呼ばれる中近東の民主化運動だが、欧米諸国の影が見え隠れするようでは、本当の平和的な民主化は難しいだろう。テロ活動は断じて許されざるものだが、憎悪の連鎖が早く断ち切れて、平和な世の中になるように望んでやまない。